【惜別の歌1/3】

原詩:島崎藤村、作曲:藤江英輔 中央大学(八王子市)OBの藤江英輔さん(86)=目黒区=が、戦時中の一九四四(昭和十九)年に作曲した学生歌「惜別の歌」に再び光を当てようと、同大中央図書館で記念展示が行われている かつて学内の講演で「惜別の歌が生まれたのは、つらい風が吹きまくる時代」と語っていた藤江さん。学徒動員で働いた都内の工場で、召集令状を届ける役目を担った。言葉にできない別れへの思いを島崎藤村の詩に託した。 悲しむなかれ/わが友よ/旅の衣を/ととのえよ−。結婚で別れる姉妹を詠んだ「高楼(たかどの)」を友との別れに書き換え、もの悲しい自作の旋律に乗せた。藤江さんが勤務中に口ずさんでいると、仲間内で評判になり、送別の歌として広まった。  戦後も学生らに歌い継がれ、大学の男声合唱団がレコード化した後、六一年には歌手の小林旭さんもレコードにして一般に広まった。 ------------------------------------------------- 伝説の人・藤江英輔氏が自ら書いた『惜別の歌』の誕生物語。 【原文】 太平洋戦争が末期的症状を示してきた昭和20年冬――。  この年の2月22日、東京は珍しい大雪であった。前夜半から降り出した牡丹雪は、明け方になってもその勢いに衰えを見せず、鉛色に垂れ込めた空から大ぶりの雪片が次から次に舞い落ちてきた。  午後7時から翌朝5時までの夜勤を終えて、一歩、工場の外に出たぼくらは思わず喚声をあげた。目を洗われるような白一色の世界であった。気象庁が発表したこの日の積雪は38センチということだったが、吹き溜まりには腰まで没するほど、深い雪の堆積があった。  そのころの東京の街は、東京を焦土と化した3月10日の大空襲の前ではあったが、年初から頻度を高めたB29による本土空襲に加えて、延焼を防ぐための家屋取り壊しなどで、むしばまれた地図のように無惨な姿を見せていた。  その街が一夜にして皚皚(がいがい)たる粧いで蘇生したのである。喚声は当然であった。  だが、この喚声には、もう1つ、別の思いもこめられていた。いつ降り止むとも見えず、薄明の空から舞いおりてくる雪の花びらを見つめていると、そのときぼくらが置かれていた位置――その日がいつかはわからないが、そう遠くないうちに確実にやってくる死の瞬間まで、この雪の乱舞と同じように踊り続けなければならないのか――そういう場所に置かれた人間の無常感にどこかで結びついた喚声でもあったのだ。  ぼくらが雪を見つめていた場所は、東京・板橋にある陸軍造兵廠第三工場。昭和19年3月7日に閣議決定した学徒勤労動員実施要項によって、その年の暮れからぼくらはこの陸軍の兵器工場で働いていた。  そこは音無川に沿った丘陵地帯で、南西にめぐらした土手に上れば、わずかな俯角ではあったが、市街を一望することができた。その街が雪に埋もれてまだ眠っている。 「ああ、故郷を思い出すな」  背後でつぶやく声に、ぼくは振り返った。信濃の山奥から出てきた同じクラスの中本次郎の茫洋とした顔がそこにあった。  この男は信州人らしい理論派で、訥弁(とつべん)ではあったが、筋道の通った思考を好んだ。ぼくらの議論の席では、むしろ聞き役だったが、議論が錯綜すると、いつもその整理役を引き受けることになった。  前夜も夜食後の休憩時間に、「おれたちは学問から離れて、ここで兵器生産に励んでいる必然性はどこにあるのか」という議論がむし返されていた。  ぼくらは昭和19年の春、中央大学予科(旧制)に入学した。独法、英法、経済の3クラス編成で、同期生は120人あまりであった。  戦局は日々に緊迫したものになり、この年の6月19・20日のマリアナ沖海戦で日本海軍は空母の大半を失い、西太平洋の制空権は完全にアメリカ軍に握られた。さらに7月7日には、サイパン島の日本軍が全滅する悲報が相次いだ。  もちろん大本営の発表は、「わが軍の戦果」に重点を置き、真相は糊塗されていたが、7月18日、東条内閣が総辞職するや、もう敗色を国民の目から覆うことはできなくなった。  ぼくらは日本の暗い運命の予感におびえ、そのおびえをひたすら学問に打ちこむことでまぎらそうとしていた。しかし、その教室を閉ざされ、この板橋造兵廠に動員されてきたのであった。もうおのれを支えるものは、油で汚れた作業服のポケットにひそめた岩波文庫くらいしかなかった。  そういう状況でのぼくらの議論は、つねに悪循環することをまぬがれなかった。聖戦遂行こそおれたちに課せられた最高の使命だという主張が、そのころの最大公約数的意見だった。しかし、戦争否定とまではいかなくても、戦争の早期終結を望む意見は、弱い、小さな声であったが、けっしてすべて圧殺されていたわけではなかった。そこはやはり学徒であった。  中本は、そのどちらでもなかった。議論の席では、いつも眼を空中の一点に置いたまま、むっとした表情を崩さなかったが、議論が結局「非国民!!」という問答無用の段階になり、仲間同士が胸ぐらを取り合う段階に突入すると、おもむろに口を開くのだった。 「やめろ! 殴り合うのは勝手だが、おれたちはそういう手段でしか、この場の決着をつけられないのか。それじゃ、あまりにもみじめじゃないか」  この言葉にみなが納得して鎮まったわけではない。もしこの騒ぎが学徒休憩室の外に洩れたら、たちまち監督官である職業軍人が飛んできて、その制裁は理非も問わぬ連帯責任として、全員に及んだからである。例えば、寒風の広場に3時間も不動の姿勢で立たされるのだ。  ぼくらはこの無教養な下士官あがりの中年の少尉に猛烈な反感をもっていた。この工場には、ぼくら以外に他の大学・専門学校・旧制中学などから1000人を超える学生・生徒が動員されており、そのなかには多数の女子学生・生徒もまざっていた。  ところがこの少尉は男女学生の対話を厳禁した。「風紀厳正」がこの少尉の常套句だった。それでいながら、軍人だけに配給される特配の酒に顔を赤くして、女子工員に卑猥な言葉で話しかけているのを、ぼくらは何度も見ていた。  この大雪の朝、中本はめずらしく彼のほうから話しかけてきた。  ぼくは、戦争は遂行せねばならぬと思っていた。国家主義、あるいは国粋主義的思想があったわけではない。どうすればこの戦争を終結させられるか、その方法がわからなかったからである。ただわかっているのは、もうすぐおれは死ぬのだという単純、絶対の力に支配されていることだけだった。  だが、中本は違っていた。自分の運命に客観的価値を発見するため、渾身の力をふりしぼっていたのであった。そういった相違はあったが、なぜか気が合った。 「おい、お前はよく文学書を読んでいるが、この詩を知っているか」  中本が差し出した紙片には、優しい文字で次の詩が書かれていた。 とほきわかれに たへかねて このたかどのに のぼるかな かなしむなかれ わがあねよ たびのころもを ととのへよ わかれといえば むかしより このひとのよの つねなるを ながるるみづを ながむれば ゆめはづかしき なみだかな  ぼくはその詩を知っていた。島崎藤村の『若菜集』に収められている、たしか『高楼』という題の詩だった。  中本はその詩を、隣の旋盤で働いている東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の女子学生から手渡されたという。  彼女がどういう気持ちでそれを中本に渡したのか、受け取った彼がどう感じたのかはわからない。しかし、2人の間に何らかの心の交流があったことは十分想像できた。  お前は顔に似合わずロマンチックな奴だなと、ぼくは中本に笑いかけたが、中本は例によって一点を見つめる表情でなにも言わなかった。 (その2に続く)