【惜別の歌2/3】

(その1から続く)              2  その日、膝まで没する雪を、朴歯(ほおば)の下駄で踏みしめ、踏みしめ、わが家へ帰った。そのころ、革靴は貴重品で、ゲートルを巻けば下駄での通勤が許されていた。  板橋から2キロほど離れた巣鴨に、祖母の隠居所があった。朴歯に雪が食い込み、何度か雪中に腕をついた。  かなしむなかれ、わがあねよ――その文句を繰り返しているうちに、いつしか姉が友になっていた。哀しむなかれ、我が友よ、旅の衣をととのえよ……。  このとき、ぼくが思い浮かべた旅の衣″は戎衣(じゅうい)であった。軍服。「風蕭蕭(しょうしょう)として易水(いすい)寒し、壮士一たび去って復(ま)た還(かえ)らず」という漢詩の一句が脳裏をよぎった。 「旅の衣は鈴かけの、露けき袖やしほるらん」  これは、弁慶が傷心の義経を守って、陸奥に落ちていく情景を唄った長唄『勧進帳』の最初の一句である。それがオーバーラップした。義経も弁慶も、富樫の情で、死をまぬがれるひとときを得た。だが……。  そんなことを考えているうちに、あるメロディが自然に浮かび上がってきた。ぼくの胸の中で死と隣り合わせになっていた若い、未熟な、無秩序な願望から、突然湧き出した不思議なメロディであった。  家に帰りつくと、『若菜集』を書架から引き出して来て、あらためて目をこらした。 きみがさやけき めのいろも きみくれなゐの くちびるも きみがみどりの くろかみも またいつかみん このわかれ きみのゆくべき やまかはは おつるなみだに みえわかず そでのしぐれの ふゆのひに きみにおくらん はなもがな  旋盤を動かすモーターの音が工場内を圧しているとき、その音がかき消える瞬間があった。ぼくらの仲間に召集令状が届いたときである。  粛然として、ぼくらは動員学徒の控え室に集まった。口を開けばいつも口論になる憎いあいつでも、そのときだけは目をうるまして相手の手を握った。  君に贈らん花もがな。文字通りなんにもなかった。許せ、友よ。言葉にならぬその思いしかなかった。そして、その回数が頻繁になった。  ぼくがこの『高楼』に曲をつけたのは、言葉に出せぬ無言の別れを無言のままに済ませることに、どうにも我慢できない焦燥を感じていたからだった。  このつたない曲は、むろん表立って発表した訳ではない。口から口へと伝わっていっただけである。  中本は音痴のくせに真っ先に覚えた。調子のはずれた変な歌唱ではあったが、一点に眼をこらす例の表情で、おもしろくもおかしくもないという顔でいつも歌っていた。そして、この歌はいつか陸軍造兵廠第三工場から出陣する学徒兵を送る別れの歌になった。  その中本に召集令状が来たのは3月の末、桜がようやくほころびかけたころであった。その日は昼間の勤務であった。工場裏の土手に呼び出されて、ぼくはそれを知った。 「お前にはいい歌をもらった。だが、おれはお前にやるものがなにもない。これはつまらんものだが、おれの心にとめた先人の言葉を書いておいたものだ。もうこれからはおれにとって無用のものだ。もしよければ受け取ってくれないか」  表紙がボロボロになった1冊の大学ノートであった。 「いいのか。お前のご両親に残しておくべきじゃないのか?」 「いや、いいんだ。おやじやおふくろには別に書いてあるものがある。これはお前がもっていてくれ」  工場から中本の姿が消えて数日たった日、ぼくは昼休みに土手にのぼった。中本のノートを開いた。そこには老子やショーペンハウエル、パスカル、ボードレールなど、さまざまな先哲の苦悶の言葉が書き連ねてあった。赤い線が引いてある箇所がとくに印象的だった。 「末法たりといえども、今生に道心発さずは、いずれの生にか得道せん」(道元「正法眼蔵随聞記」) 「我より前なる者は、千古万古にして、我より後なる者は、千世万世なり。たとえ我等を保つこと百年なりとも、亦一呼吸の間のみ今幸いに生まれて人たり。庶幾(こいねがわくば)人たるを成して終らん。本願ここにあり」(佐藤一斎「言志録」) 「愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのでなく、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである」(三木清「人生論ノート」)  そういった箴言(しんげん)が、そのノートにはあふれていた。痛ましいほどの自己格闘がそこに点滅していた。  8月の初め、ぼくにも召集令状がきた。その1銭5厘の赤い葉書には、「9月1日午前9時、静岡県三方ヶ原陸軍航空隊に入隊を命ず」と記されているだけだった。それまでは準備期間として学徒動員が解かれ、自宅待機が許されていた。  そして8月15日がきた。その日、ぼくは焼け残った祖母の隠居所にいた。  酷暑という言葉にふさわしい日であった。正午、終戦を宣する天皇の玉音放送を呆然として聞いた。四球真空管のぼろラジオから流れてくる抑揚のない天皇の声はひどく聞き取りにくかったが、 「……耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」  という一言だけが、なぜかぼくの肺腑をつらぬいた。このとき、涙があふれた。国運を賭けて今日まで耐えてきた歳月の重さが、全身から抜けていくようであった。  だが、それは生き残った人間の虚しさであった。生き残った者の心情など、この際どうでもよかった。  そのとき、ぼくが流した涙は、この戦いで死んでしまった幾百万の日本人の魂は、もう行くべき彼岸がないではないか、というその無念さであった。彼らの魂は、この瞬間、もう安堵することなく、無限にこの天空を翔び交うほかないではないか。  この日から1か月ほど、ぼくは近所の焼跡を覆う瓦礫の山を、なんの目的もなく、ただ1人で掘り崩す作業を、連日、痴呆のように続けるだけだった。もうB29の爆音も聞こえない夏の空は、吸い込まれるような青さに輝いていた。  大学が開いたのは、その年の10月であった。幸い神田の校舎は焼失をまぬがれていた。割れ落ちたガラス窓には秋風が吹き抜け、ときには黄ばんだプラタナスのわくら葉が教室に舞い込んできたが、ぼくらの精神はもっと病んでいた。  登校する学生の数は入学時の半分に減っていた。敗戦直前の戦闘に斃れた者、戦地から引き揚げてはきたが、そのまま郷里に根をおろしてしまった者、いちおう上京はしたが、もう学問など一顧もしない生活に飛び込んでいった者、それぞれが自分の運命の道を歩いていった。中本はついに帰ってこなかった。  帰校した学生のなかには、「おれはもう独逸法はやめた。これからは英米法の時代になる」という機敏な見通しで進路を変更する者や、「おれはマルクスをやる。これからのおれを支える杖は唯物論しかない」といって、さっさと転科の手続きをとる変わり身の早い者もいた。  が、大方の学生は、自分の思考を行動化できる人間に羨望と軽蔑のないまぜになった視線を投げるだけで、校庭の日だまりに身を寄せあい、無為な時間を過ごす以外に方法がなかった。  変身する者も、それができない者も、ささくれだった心の内面は同じだったのだ。両手の中で必死になって暖め続けてきたもの、その暖かさのためにのみ、自分の死を肯定しようとした掌(たなごころ)の中のものが消えたとき、若者たちの裡(うち)にあった何物かが死んだ。  戦中派といわれる世代に共通した点は、その胸中の死者を葬い切れないままに余生を生き続けている、という不逞な自覚にあるのではなかろうか。  昭和19年4月に予科に入学してから大学を卒業するまでの6年間、ぼくの心にアカデミズムはついに復活しなかった。いや芽生えなかった。  仲間のうちには学問への情熱をとり戻し、母校法学部の教授になった田村五郎や、東洋大学経済学部の教授になった坂本市郎などが、親しい友人としてぼくの周囲にいた。司法試験の難関を突破し、今は判事、検事、弁護士の要職にある友人も十指に余るほどいた。  そして、ぼくのように行方も知らず″組も何人かいて、ひとつのグループを作っていた。いずれも得がたき良友たちである。  みな『惜別の歌』を同じ心情で歌った仲間だった。その仲間が大学を卒業して、それぞれの道に散っていったのは昭和25年3月のことである。                   3  造兵工廠の仲間は散り散りになったが、『惜別の歌』は中央大の後輩たちへと受け継がれ、学生歌として定着した。  中央大学の音楽研究会・グリークラブが、『惜別の歌』のレコーディングを企画し、学生課の人がぼくを訪ねてきたのは、昭和26年の夏ごろであった。学生たちが、いまもなおこの歌を愛唱しているので、ぜひレコードにしたいとのことであった。  拒む理由はなかったが、1つ問題があった。  この島崎藤村の詩は、処女詩集『若菜集』(明治30年、1897年)にある『高楼』から採ったもので、原詩は嫁ぎゆく姉とその妹との対詠という形式になっている。だから『惜別の歌』の1節、「悲しむなかれ、わが友よ」は、正確には「悲しむなかれ、わが姉よ」である。姉を勝手に友に置きかえて歌っていたのだ。  レコードに吹き込むなら、原詩の著作権者の諒承が必要であった。  幸いだったのは、ぼくの勤務していたのが新潮社だったことである。たまたま、その時期に『島崎藤村全集』19巻が新潮社から刊行中だった。そのおかげで、藤村の遺児で画家の蓊助氏とは、ぼくも面識があった。  さっそく、蓊助氏宅をお訪ねして、ご承知いただけたのは何かのめぐり合わせ″という感が深かった。  この歌がさらに一般の歌となるまでには、なお曲折があった。  戦争中、板橋の造兵廠で『惜別の歌』を歌って学徒出陣兵を送った学生・生徒たちは、それぞれの大学や学校に戻ったあと、友人などにこの歌を歌って聞かせた。東京女子高等師範学校(お茶の水女子大)の学生など、卒業後教師になった者のなかには、赴任先の学校で生徒にこの歌を教えた者も多かったと聞く。  そのようにして、この歌は全国に拡散していったのであった。  ぼくは知らなかったが、昭和30年ごろ、各地の盛り場に「歌声喫茶」なるものが続々と出現していた。毎夜、100人を超える若者たちが集まって、われらの歌″の大合唱をするのである。  その合唱の曲目のなかに『惜別の歌』が組み込まれていた。レコード会社は「歌声喫茶」に着目し、リクエスト回数の多い歌を次々にレコーディングして売り出した。『惜別の歌』もそうして商品化された。  ただ、レコード会社の敏腕な社員も、この曲を作ったのは、おそらく藤村と同時代の人間で、すでに物故者だろうという早合点から、積極的に作曲者を探そうとはしなかったようである。  なぜなら、ぼくのところへ日本コロムビアの邦楽責任者が探し探しして訪ねてきたのは、もうとっくに小林旭というスターの吹き込みが終わり、発売予定の1週間前だったからである。  レコードジャケットを見ると、ぼくが楽譜に書いた『惜別の歌』は『惜別の唄』となっており、歌詞の4番が削られて3番までとなっていた。 「もう発売を待つばかりです」と言われては否も応もなく、断る余地は残されていなかった。こういう形で世に出たのも、やはり何かのめぐり合わせだったかもしれない。  それはともかく、1少年の感傷から生まれた歌は、このようにして思いがけず長い生命をもつことになったのであった。 (その3へ続く)