【惜別の歌3/3】

(その2から続く)                    4  中央大学の猪間驥一教授がぼくを新潮社に訪ねてこられたのは、昭和41年の初秋であった。  この人は一風変わった人物だった。  昭和39年から40年にわたって全国を吹き荒れた学園騒動で、中央大学も一時学校を閉鎖し、授業を放棄せざるを得ない状況にあった。そのとき、この硬骨の教授は、学外にビルの一室を私費で借りうけ、授業を受けたい学生たちに呼びかけ、自分の担当する統計学・財政学の講座を完結させたのであった。  このことは当時の毎日新聞社会面のトップ記事となって報道されたが、ぼくがお会いしてその話に触れたとき、「教師が講義したことがニュースになるなんて、変な世の中ですね」と苦笑しておられた。  この猪間教授が、41年冬、中央大学としては画期的な告別講演(Farewell address)を行った。  欧米の著名な大学では、正教授の講座就任には就任演説、退職時には離任演説というセレモニーがあるのが普通である。高名な経済学者アルフレッド・マーシャルの「冷ややかな頭脳、しかし温かい心情」という名言は、彼がケンブリッジ大学の教授になったときの就任演説で語られた言葉である。  だが、日本の大学では、全校の学生に呼びかけるような学問的ボルテージは、非常に低い。それを承知のうえで猪間教授は、定年で大学を去る機会に告別講演を実行した。  ただし、講義の題目は専門講座から離れた。統計学ではいくら全学生に呼びかけても、集まる学生の数は知れている。だから教授は、告別講演という習慣を作るために、あえて演題を「中央大学校歌と『惜別の歌』の由来」に変えたのである。  ぼくを訪ねてくださったのは、その数ヶ月前であった。  この告別講演は12月1日に行われた。招かれたとき、紹介も挨拶もいっさいなしで、ただ一書生として告別講演を聞くだけなら、とのわがままを、先生はそのまま認めてくださった。  講堂には300人を超える学生が集まっていた。ぼくは後ろのほうの席に身をひそめるような格好で坐った。 『惜別の歌』の由来は、造兵廠時代から歌声喫茶にまで及び、ぼくは赤面のしどおしだった。そして、最後に先生は結びの言葉を、こう述べられた。 「諸君、今日は12月1日である。12月1日といっても、諸君には歳末の1日だというほかは何の興味もない日かもしれない。だが、私のように戦争を経てきた者は、この日に特別な記憶をもっている。そして私と同じようにつらい記憶をもっている多くの日本人のいることを記憶されたい。  23年前の今月今日、氷雨ふる代々木原頭で、第1回目の学徒出陣ということが行われた。祖国の危機に対し、何万のうら若い学生はペンを捨て、教室を去って、この日、戦場に赴いた。その学生たちの何千かは、再びこの国には帰らなかった。それらのなかには諸君の先輩たる中央大学生も数知れず含まれていたのである。  私は先年、大学からヨーロッパヘやっていただいたが、そのとき、ウィーン大学を訪ねた。ウィーン大学の玄関には女神の首の像があり、その台座の正面には『栄誉、自由、祖国』、右側には『わが大学の倒れし英雄をたたえて』、左側には『祖国ドイツ学生及びその教師これを建つ』と彫られてあった。  次にハイデルベルク大学に行くと、そのメンザ(学生食堂)の戸口の上に、『喜びの集いありても、宴の装いに輝く広間にありても、汝らのために死せる者はなお生きてありと思え』と書かれてあった。  中央大学にはそういう像もなく、碑銘もない。しかし、この『惜別の歌』がある。これを歌って戦いに赴き、倒れた英雄は、わが大学にも少なくなかったのだ。今日のわれわれの繁栄と幸福は、これら英雄の犠牲の上に立つ。  私は諸君が『惜別の歌』を歌うとき、普通には単なる惜別の情をそれに託するのでもちろんいいのだが、十度に一度、五十ぺんに一ぺんは、この歌がいかなる由来に基づくものかを思い出されんことを望む」  これは明らかに過褒である。ウィーン大学やハイデルベルク大学に掲げられた高揚たる碑銘になぞらえるなど、身のすくむ心地がする。  だが、そう感じたことすらが、ぼくの思い上がりであることにすぐに気づいた。  猪間先生のおっしゃりたかったのは、『惜別の歌』に仮託して、世代の断絶などという言葉を安易におのれの生活のなかに持ち込むな、ということだった。戦後日本の民主主義(デモクラシー)は混沌としかいいようのない価値観の乱れを生んだ。その乱れに乗じて、あらゆる虚飾、打算、変節、背任、詐術が、最大多数の最大幸福という、実体不明のご都合主義に名を借りて、白昼公然と横行している。 「真鍮(しんちゅう)は、鍍金(めっき)した真鍮から軽侮を受ける理由はない」という意味のことを漱石は言っているが、こうした言葉は通用しにくい世の中なのである。猪問教授の告別講演は、この現実を直視したうえで、だからこそ若者はおのれ自身に衿持(きょうじ)をもてと、言外に訴えていたのである。                    5  国破れて25年の歳月が経った年の晩秋、ぼくは友人に招かれて、一夜、霞ヶ浦の岸近い1軒の旅亭にのぼった。2階の座敷からは、暮色の中に鈍色(にびいろ)に光る湖面が遠望され、その湖面から寒々とした風が渡ってくる。  その店は、かつて連合艦隊司令長官山本五十六が贔屓(ひいき)にしたことで有名である。山本司令長官はしばしば彼の若き属僚を引きつれて、ここで痛飲したと聞く。いまもなお昔のままの面影を残した大広間や廊下、古色のにじんだ床の間や建具に、彼らの息吹が染み込んでいるかのようであった。  そういう感慨がふと酒席を支配し、会話が途切れたとき、年老いた女将は、「私の宝物をお目にかけましょう」と話の穂を継いだ。「あれを……」と女中に命じて、その席に取り寄せたのは一双の屏風であった。  墨痕あざやかな寄せ書きが一面に書かれていた。 「これを書いていった人は偉いお方たちじゃありません。ここ(かつての霞ヶ浦航空隊)から飛び立って、2度と帰ってこなかった若い軍人さんたちが書いたものばかりです」  おそらく20歳前後の若者たちが、特攻出撃に出る寸前のわずかなひとときを過ごした宴の場所だったのであろう。いずれも達筆であった。「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」「祈皇国弥栄(いのる・すめらみくに・いやさか)」などの言葉にまじって、突然、ぼくの眼に飛び込んできた一句があった。  茶を噛みて 明日は知れぬ身 侘び三昧  穏やかな筆づかいであった。それに連句がついていた。  猿は知るまい 岩清水  これも水のように淡々とした筆致であった。ただ一気に筆が流れていた。これを見たとき、ぼくの背中に戦慄が走った。  この猿が何であるか、それはいくらでも想像できる。しかし、猿という言葉を使わざるを得なかったところに、想像を超えた無限の痛憤がこもっていた。  表面の筆致が静かであればあるほど、なにか煮えたぎるような感情が痛々しかった。なんのために自分たちは死ぬのか、国のため、わが愛しき人たちのためと、ひたすら信じようとしながらも、なお抑えきれぬ若い生命への愛惜が、その墨跡に脈打っていた。  あのころの若者たちは、欝積した暗いエネルギーを、かくもがむしゃらに押し殺しながら、短くかつ長い時間を生きていたのだ。中本の大学ノートがまざまざと思い出された。 「あの人たち、生きていれば、ちょうどお客さんたちと同年輩だろうに……」  老女将の静かなつぶやきを聞きながら、ぼくはぼくの胸の中の死者たちが、まぎれもなく蘇ってくるのを感じていた。(終) 藤江英輔氏略歴 昭和元年(1926)生まれ。中央大学法学部 卒。昭和25年(1950)新潮社に入社。『週刊 新潮』『小説新潮』等の編集に携わり、広告 局長を最後に退職。以後、会社を経営。